あの男の存在を、この手で消した日から。
またはあの男が、永遠に捉えられない存在になったと思った日から。
一年目は、冷たい海上から見た、爆発の瞬間が何度も夢に現れ、眠れない日々が続いた。上司の
取り計らいで、ICPOへの出向を終え、警視庁に戻ってくることは出来たものの、どうやって
苦痛に耐えたのか、ほとんど記憶にない。
二年目は、時折、訳もなく空しくなった。歩いている時、叶わない期待を抱き、しばしば振り返
ることが多かった。絶えまなく起きる事件に埋もれながら、次第に心が虚ろになっていく自分が
いるのを、他人事のように感じていた。
空虚を得たのは、三年目だ。夢に見ることも、振り返ることもなくなった。苦しみも、持っては
いけないはずの一縷の望みも、心の奥深くに沈め。


そして、ここまで生きてきてしまった。


死に損ねたのだ、と思う。
人は、生きる意味や意義がなくとも、生きていくことは出来る。
たとえどんなに苦しくとも、死にたくとも、自分で行動を起こさない限り、生きている限り腹は
空くし、眠くもなるからだ。
日本に落ち着いたのも、あるいは良かったのかもしれない。帰ってくるのは真夜中、短い夜が明
ければ、また忙殺されて、馬鹿なことを考えている暇もない。
歩くことを急かす時間の流れ。
俺がいなくなったところで何も変わらない、雑踏。
いつまでも絶えない喧騒と、犯罪と。
「…けれど、虚しかった」
いまだ、闇に包まれた飛行機の中。
息を吐いて、窓を仰ぐ。広がっているのは、一面の白き雲の世界。眩しい光と、透き通るほどの
青い空が、目に痛かった。
そう、やはり虚しかったのだ。消失は、覚悟していたはずなのに。俺は、喪失の事実を受け止め
きれなかった。
だが俺は、止まっていた刻が、もう一度動こうとしていることを知った。
少なくとも、峰不二子は生きていたからだ。最後に、挑むような言葉を残した以上、この先に怪
盗が待つのだろう。
溜まっていた有給休暇を使い、旅行という形で日本を離れたのは、あれから二日後になった。
それにしても、外国へ向かう飛行機に乗るのは、三年振りだ。今頃のように、懐かしさを覚えて
いることに気がついて、
苦笑が洩れる。
カーテンが引かれ、明るくなる機内。
人々のざわめきが増え始めるのと同じよう、厚い雲を越えて、次第に近付く陸を見据えて、俺は
胸中で呟いた。



全ては、ルパンに会ってからだ。
これから俺自身が、どこに向かうことになろうとも。



空港に降り立ち、入国手続きを済ませると、鉄道を何度か乗り継いだ。流れていく自然を眺めな
がら揺られること数時間、ようやく、メモにある地名に近い町に、到着する。
日本を出る前に買っておいたガイド地図を見る限り、やはり目的地までは、車を使わなければな
らないようだった。
逸る気持ちは、得てして行動を敏捷にさせるものらしい。1時間後には、俺は既に予約しておい
たレンタカーに乗り、街を発っていた。
「…随分、田舎に来ているんだな」
地図に沿って車を進めていくうちに、ショップや観光地で賑わった通りが疎らになってゆき、次
第に窓の外は、緩やかな丘に、広い草原で戯れる、牧歌のような風景を見せ始めたからだ。
意外に感じるのと同時に、今まで何度も繰り返した問いを思う。


ルパンは、何をしようとしているのか。


何故今になって、一味が姿を現したのかが解らない。
そして不二子があえて正体を明かし、ルパンの居場所を教えた理由も。
枷となる存在を求めているのは俺だけではないと、あの女は言った。
その言葉の意味を、額面通りに受け取るならば、奴は、この俺に追われるのを望んでいるという
ことになる。
だが、それはない筈だ。
『国際死刑執行機関』の精鋭と共に、ひと芝居を演じて騙そうとしたのだ。たとえ全てを知って
いたとしても、俺を許してはいないだろう。
それを踏まえると、あとは復讐ということもある。
奴は痛い目に遭わされた相手に、同じ仕返しをしなければ、気が済まない性質だ。存外、執心深
いところもある。
人知れない地で身を潜めながら、計画を練っていたとしてもおかしくない。
何せ、三年越しである。
笑えない展開だと思いながら、俺は煙草を咥え、溜息を洩らした。
罠に飛び込むとは、よく言ったものだ。
怪盗に、常に影のように寄り添っていた義理堅い男も、人並みならない剣技を持つ、澄んだ眼を
見せていた侍も、共にいるのだとしたら。
この国で命を落とすことも充分考えられるではないか。
だが、引き返す勇気もない。
失わなければならないものあったから。あの男が生きていると知った俺には、それを抱えたまま
歩き続けていくことは出来ないのだ。
怒り。痛み。苦しみ。…後悔。
今、俺は自分の中に封じた感情と、向き直る。あの時の想いを思い出すことは辛いと、理解しな
がらも。




『神が田舎を創り、人が町を創った』
こんな一文を、昔何かの本で見たことがある。
優しく緩やかな、時間の流れ。
何も望まず、何も求めず、ただあるがままに。神が創造したのは、そうした世界であったと。
しかしアダムとイヴが罪を犯し、その無垢なる楽園から追い出されたのと同じく、人間は楽園を
拒み、街を造りだした。人工の華やかさの中に、底知れない闇と欲望を呑み込ませながら。
ただ人は、都会に栄光を求めるように、田舎に平穏を見出だす。
白い綿雲の浮かぶ青い空や、どこまでも続く緑、古い町並に安らぎを覚えるのは、遥か昔への、
回顧の感情から来るものなのかもしれない。
…そしてここも、そうして神が創ったものなのだろうか。
この地方は、なだらかな丘陵地帯を囲むようにして、村が集まっているらしい。
互いに、さほど遠くない場所に点在するそれらは、一本の道路で結ばれているので、移動がしや
すいようだった。
渓谷の下流に出来た、谷あいにある小さな村。まず俺は、初めに辿りついたその場所に、留まる
ことに決めた。
車の中から、広いとはいえないメインストリートを歩く、地元の人に訊ねると、すぐにホテルの
場所を教えてもらえる。
止めておく場所が、欲しかったのだ。道路があるとはいえども、あまり身動きが取れない。情報
も手に入れにくいだろう。
何より、徒歩の方が好きなのである。
『銭形様ですね。部屋にご案内致します』
幸い村の外れ、静かな森に佇むホテルには、空室があった。通された部屋に荷物を置いて、俺は
すぐに外出する。
飛行機、列車、車…長い移動で大分疲れてはいるのだが、休む気にはなれなかった。

仰ぐ先には、薄い雲が広がった穹。

その隙間から零れる、柔らかな陽の光。夕方に近いためだろう、村はひんやりと肌寒い空気に包
まれていた。
ライムストーンと呼ばれる、薄茶色の石で造られた家並み。玄関の前に置かれた花壇には、色の
鮮やかな花が咲き誇る。
道行く人々の表情には、焦りや慌しさもない。
きっと地面の下に、何百年も前に時を刻むのを止めた時計が、埋もれているのだ。
どこか現実ではないような気もした。そう感じるのは、自分がここに溶け込めない所為か。
…とりあえず、だ。
何本目かの煙草を口に挟み、ライターで火を点ける。村を一周するのは、そう難しくはないよう
だったので、俺は聞き込みをして回ることにした。


『見たことないわ』
小さなレストランにて。
質問にそう答えたのは、コーヒーを運びに来た若いウエイトレス。差し出した奴の顔写真を見、
すぐにかぶりを振った。
『こんな格好をしている人が来たら、印象に残るもの』
確かに、そうかもしれない。
女性には目がないルパンのことだ。来れば、必ず声をかけていたに違いないだろう。とはいえ元
は不二子の情報だ、変装している可能性が一番高いだろうが。
「それとも、訪れたのがごく最近ということだが…」
『人捜しですか?』
日本語になっていたことに気付き、俺は曖昧な笑みを浮かべた。
『…まぁ、そんなものだ』
カップを傾けながら、返された写真を受け取る。
『どうしても会わなきゃならんのでね』
『それなら、村の中心に行ってみると良いですよ。この通り小さな村だから、その日に起こった
出来事は、皆市場に集まるの。とはいっても、井戸端会議みたいなものね。子供がこういういた
ずらをしたとか、飼っている犬が逃げ出したとか。そういう、他愛のない話題ばかり。物騒な事
件からは、ほど遠いけど』
『平和で結構だ。君のような若者は、さぞ退屈なのでは?』
その時、違うテーブルから声がかかる。快活に返事を返したウエイトレスは、それから俺に、笑
顔を浮かべた。
『私は、この生活が好きです』
『…そうですか』
十年以上も、前。
自由を駆け、世界を見通し嘲笑う怪盗に出会わなければ。またはその仮面の裏に隠した、深い孤
独に、魅かれていなければ。
慌しくも、穏やかなままでいられたのだろうか。
心を乱さずにいられたのだろうか。
今いる場所が幸福だといえるその女が、羨ましかった。
『その方、見つかると良いですね』
『ありがとう。引き止めてすまなかったね』
礼を述べると、ウエイトレスは軽く会釈をし、軽やかな足取りで客の元へと向かった。
…どうにも、暗くなっていけない。
呟いて、帽子を被った。
湧き上がる苦い思いを振り切るよう、結局昼食を摂らずに、店を出る。メインストリートの先の
賑やかな声が聞こえてくる方へ、足を向けた。
中心にある広場は、なるほど、小さいながらも活気に溢れた市場になっていた。屋台は、野菜に
魚、肉、果物などから、中には雑貨もあった。彼女の言っていた通り、買い手は主に女性で、噂
話や雑談に花を咲かせている。
『…最近三年の間に、引っ越してきた人?』
手前で野菜を広げてきた男は、写真を眺めながら、しばらく考え込むように眉をひそめると、や
はり首を傾げる。
『見覚え、ないですか…』
『ああ。こいつの顔も知らんが、誰かが引っ越してきたというのも…いや、そうでもないな。お
い、あの坊主が来たのはいつだけっか?』
茶色の髪を掻いて、頷きかけた男の表情が、ふと何かを思い出したものになる。次いで隣、色と
りどりの果物を売る、ふっくらとした顔立ちの主婦らしき女性に、大声で問うた。
どうやら、夫婦のようだ。坊主なんていうんじゃないよ、と夫を睨んだ後、女性は俺に向き直っ
て、話し始める。
『私も、この人は見たことないね。でも一ヶ月前から、この近くの宿に長期で泊まっている方な
らいるわ。それが結構いい男でさ、うちの子なんかもよく遊んでもらってるのよ』
『それで、彼の名は…』
『名前かい?』
顔を見合わせる夫婦。返ってきたのは、知らないという答えだった。訊ねようと思うのだが、気
がつくといつも、忘れてしまっているらしい。
疑問が、ますます頭をもたげてきた。
おそらく村の住人が意識しないよう、はぐらかしているのではないか。他の人々にも質問しない
と分からないことではあるが、ここは本人に会うのが先決だろう。
俺は続いた世間話から、青年が、村にある石造りの橋に居ることが多いと聞き出して、ようやく
市場を後にする。




静謐な川の流れ、柔らかい灰色の石。
ほどなくして、村にひとつだけある、石造りの橋を見つけた。その上では、子供たちが無邪気に
遊んでいる。
そして、輪の中にもうひとり。
橋のたもとから窺えるのは、青年と呼ばれるほどには若い、ということだけだ。あの青年が、夫
婦の言っていた
男に違いないと、近付いていく。
と、不意に駆けてきた、白いシャツを身につけた少年としたたかにぶつかる。
短く切った胡桃色の髪が、光に映える。橋に尻餅をついた少年は、灰色の瞳で俺を見上げ、ばつ
が悪そうに、
『ごめんなさい』
『構わんさ。君こそ、怪我はないのか?』
自分の身体が、人並みよりは大柄なのは自覚していた。ばつが悪いのは俺の方だ、と思いながら
屈んで少年を立たせると、服についた埃を払う。
『ないよ。…ありがとう』
俺が立ち上がるのを確かめると、軽く頭を下げて、再び走り出した。途中、青年の前で立ち止ま
ったその少年は、何事かを口にする。
穏やかに頷いてみせながら、ゆっくりと、こちらに目を移した。
照れた笑顔を浮かべた少年に重なる、ブラウンの長い髪を首の後ろで緩く束ね。
瞳はコバルト・ブルー、闇と青の狭間を思わせる、深い色だ。
澄みきった水のような、その眼を。
どこかで、知っているような気がした。
『日本の方ですね。観光ですか?』
青年は口許を綻ばせると、綺麗な英語で問いかけてくる。一瞬、呆けていた俺は慌てて、居住ま
いを正し、ぎこちなく言った。
『ええ、半分は』
『半分?』
淡い色のシャツの袖を掴んでいた、金髪の可愛らしい少女を抱き上げると、青年ははたして、怪
訝そうな表情を見せる。
俺は、懐から写真を取り出した。
『もう半分は、用事です。人を、捜していましてね。この近くにいることまでは突き止めたので
すが、どうも隠れるのが得意な奴でして…今、訊いて回っている最中なんです』
『突き止める…まるで、警察の方のような物言いですね』
『や、分かりましたか。…いえ、あくまで私事なんですよ。ですが、こういう口調は身について
しまうと、なかなか抜けないもので。お気を悪くされたのなら、謝ります』
これは、芝居なのたろうか?
疑いを拭えないものの、思わず恐縮すると、青年は微笑んでそんなことはありません、とかぶり
を振った。
『…それで、どんな方なんですか』
目の前にいる男が、本当にルパンだったとしても、そうでなくても、知らぬ存ぜぬになるだろう
と考えていた。だが、その写真を見、いささか驚きを隠せないといった様子になった彼から、意
外な反応が返ってくる。
知っている、というのだ
『ええ。赤いジャケットが、とても印象に残っています。それに黒い髪と瞳ですから』
『…なるほど、それならばこの男に違いないでしょうな』
悪意も作為も感じられない答えとまなざしに、罠なのかどうか、判じかねる。俺は胸をざわめか
せる動揺を押し殺し、矢継ぎ早に質問を重ねた。
『いつ、どこで見かけました?』
『ちょうど、滞在を始めたばかりの頃ですから…一ヶ月ほど前でしょうか。今日のように、村に
住む子供たちと
遊んでいる最中でした。彼はあなたと同じよう、この橋を歩いてきました』
青年の言葉が、身体の中で反響する。
脳裏に、映像となった情景が、流れ込んでくる。
騒めきに紛れた、静かな足音。
風になぶらせた、短く刈った黒髪。
唇に浮かんだ、真意の読めない微笑み。



見たものを魅了する、漆黒の瞳。
そして口が開かれ、飄々とした声が…



「この橋を…」
生きていた。
怪盗はやはり、あの爆発から脱出していたのだ。不二子の言葉と、これまで絶えず感じてきた、
根拠のない予感は、はっきりと、ひとつの確信となる。
『その男とは、話をしましたか』
『ええ。道を…尋ねてきました。ある店を、捜していると』
『名前は御存知ですか?』
いとおしい存在を扱う手つきで、少女を橋の上に降ろした青年は、顔を上げると、深い藍色の視
線を真っ直ぐに俺に向け言った。
『…『JUNK』』
ジャンク。
がらくた、か。どんなものを扱っているのだ?
『面白い名ですな』
『名前と場所しか知らないのですが、腕の良い修理屋だそうです。この先の村です、半日もかか
らずに着けるでしょう。
お教えします』
住所を教えてもらい、礼を述べる。決められた聞き込みの終わり方をたどり、その場を去ろうと
した俺だったが、そこでふと、
違和感を覚えた。
…ここに来て間もなかった青年が、どうして、違う村にある店を知っていたのかということに。
もちろんこの村に落ち着く前に、立ち寄った可能性もある。しかしわだかまった思いを引きずっ
たままで別れるのも、気分が悪い。
仕方ない。思い切って、訊ねようとした時。


『「待っている」』


空のように青く、澄んだ瞳を持つ青年は、ひどく真摯な表情で見つめていた。かけられた台詞に
眉をひそめる俺に向け、言葉を解いた。
『あの人は、言いました。もしこの先、私に自分のことを尋ねてくる者がいたなら、その人に修
理屋の場所と、そして「待っている」という言葉を、伝えてくれと』
風は、先程と変わらず、穏やかに吹いている。
俄かに混乱と困惑を引き起こした俺の心など、知らないように。
分かっている。いつだって時間は、人の感じる痛みなど置き去りにして、流れ去ってしまうもの
なのだから。
「待っている」、だと?
俺が、この地に来ることを。
俺が、お前の誘いを拒むことが出来ないことを。
『あなたはここに、来るべくして来られたのですね』
青年の優しい微笑を含んだ声が、ひどく遠くから、聞こえた。
『彼にお会い出来ることを…私は、心から祈っています』







なぁルパン、お前は。
とうの昔に、予測していたのか?








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